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戦争責任の探求 日本兵捕虜 三

二式大艇

帝国海軍 最大の失態「海軍乙事件」

■海軍乙事件

ミッドウェー海戦で敗北した日本海軍連合艦隊は
根拠地をパラオ島に構えていた。
停泊していた艦艇は、戦艦「武蔵」、他に「愛宕」「高雄」
「鳥海」「妙高」「羽黒」などの巡洋艦と駆逐艦であった。
司令官は、前年、米軍の無線傍受により、
P38戦闘機の待ち伏せに会い戦死した山本五十六の後任、
古賀峯一大将。参謀長は福留繁中将である。

1944年3月30日、米軍機動部隊は連合艦隊の本拠地である、
パラオに大規模な空襲を開始。
パラオに配属されていた日本軍戦闘機郡はこれを迎え撃ったが、
その大半が撃墜され、パラオ基地は容赦ない空襲にさらされ、
戦艦「武蔵」は事前にパラオを緊急脱出で何とか難を免れたが
結果、駆逐艦「若竹」など艦艇12隻が損失する。
連合艦隊司令部は、空襲から後に上陸作戦に発展する可能性があると判断。
フィリピンのミンダナオ島にあるダバオ基地に後退し、
最終的にサイパンに移動することを決定した。
連合艦隊司令部がパラオに閉じ込められれば、全軍の指揮は不可能になり、
日本海軍にとって致命的な打撃になる恐れがあったからである。

パラオ脱出は1944年3月31日夜。3機の二式大艇が用意され、
1番機には、古賀峯一大将、艦隊機関長上野権太大佐らが、
2番機には、参謀長福留繁中将、作戦参謀山本祐二らが便乗した。
出発から一時間程は、天候は良好であったが、激しい低気圧に遭遇。
機体は猛烈な雷雨に見舞われ、
1番機は消息不明となり古賀大将以下全員殉職。
2番機は何とか低気圧をくぐりぬけたが。目標を大きく外れ、
燃料切れとなってセブ島に不時着した。
二式大艇は炎を吹き上げ、大久保信大佐ら高級将校と下士官が死亡。
福留繁中将と作戦参謀山本祐二ら生き残りの将兵らは、
墜落に気づいたフィリピンのゲリラ兵に捕らえられ、
帝国軍人として最大の恥辱である「捕虜」となった。

福留中将と山本中佐は、Z作戦計画の関連書類と
艦隊司令部用信号書を携行していた。
Z作戦計画は、千島から内南洋方面に
敵の有力攻撃部隊が来攻した場合の
迎撃作戦を示したもので、それが敵手におちれば連合艦隊の全容が察知され、
次期作戦に多大なる影響を与えることになる。
福留らは捕虜になったばかりか、
このZ作戦計画書を現地人に奪われてしまった。
海軍中枢部は一連の事件を「乙事件」と称し秘匿した。

福留繁中将ら9名はセブ島のゲリラ隊基地に連行。
ゲリラのマルセリーノ・エレディアノ大尉に日本語で尋問を受け、
セブ市西方のトパス山中にあるクッシング中佐の根拠地に収容される。
ところが、丁度其の頃ゲリラ討伐を行ってた大西中佐ら率いる、
陸軍独立混成第31旅団独立歩兵第173大隊がクッシング中佐らを包囲。
クッシング中佐は捕虜の岡村中尉を軍使にして
日本軍の攻撃中止と捕虜交換を要求。
岡村中尉は日本軍の前線にたどり着き、
大西中佐と面会しクッシング中佐の手紙を渡す。
大西中佐は独断で取引に応ずると回答し、
双方が対峙するほぼ中間点のマンゴー樹の下で捕虜引き渡しが行われた。

福留中将等は日本軍セブ派遣隊に引き取られ、セブ水行社に到着。
第三南遣艦隊参謀から急派されていた参謀山本繁一少佐は、
福留に対して機密書Z作戦計画に関しての追求を行った。
福留中将は山本繁一少佐に対し、
機密書類を納めた書類ケースを軍服等と共に現地人に奪われたが、
彼らはそれほど関心を抱いていなかったと答える。
福留と山本はセブから東京の羽田へ輸送され、
海軍大臣官邸において事情聴取を受ける。
聴取には海軍次官沢本中将ら蒼々たる役職者たちであったが。
福留らは同様の説明を行い。沢本らは福留らの証言に安堵。
中枢部は機密流出よりも福留らが捕虜となったことを問題とし、
連合艦隊参謀長が虜囚の辱めを受けならがら
生還してきた福留らの責任をどう処遇するか検討に入った。
軍法会議にかけるべきとする意見も少数にあったが、
「海軍乙事件」福留らの責任は一切不問にされた。

■乙事件関係者に対する処遇

海軍中枢部が下した福留中将、山本祐二中佐らの処遇は以下の通りである

乙事件関係者に対する処遇の件

1、関係者を俘虜査問委員会に附する要なしむと認む

 <理由>

(1)捕虜の定義と称すべきもの無く 従って乙関係者が俘虜となりたるや
  否やの判定は困難なるも
   少なくとも相手より俘虜と取扱を受けたる事実は無きものと認む
(2)相手は必ずしも敵兵と見なし得ず 特に土民は敵に非ざること明瞭なり
   又クッシング中佐が果たして米国政府の命を受け
  戦闘行為をなしつつあるものなりや否や
   不明にして正規の敵兵として断定しえず。
(3)何等相手の訊問等を受け又は自己の意志を拘束せられたる
  事実を認め得られざるを以て 
   相手に降伏せるものと認め得ず
(4)仮に広義的に一時俘虜の経路を辿られるものとするも 
  海軍大臣に於て其事実を知り旦(かつ)
   何等利敵行為等なく責任を調査するの要を認めざるを以て 
  査問会にて更に調査の要なし

2、関係者を軍法会議に附する要なしと認む
  法律上の罪を犯したりと認むべきものなし 即ち

(1)事件発生は操縦者以外は不可抗力なりしこと
(2)「敵に降り」たる事実を認め得ず
(3)利敵行為なし
(4)軍機保護法に触るるが如きことを為しあらず

3、処置

前諸号に依り関係者を問ふべき筋なきものと認むる所
従来敵国の俘虜となりたる者に対しては 
其の理由の如何を問わず極端なる処置を必要とするが如き
理外の信念的観念を以て対処したれる事実あり
故に今次の処置は 右の根本的観念を破壊せざること肝要にして
(従来の観念を変更せんとせば重大問題を惹起すべく
且(かつ)変更すべきにあらずと信ず)
之が解決の途は一つなり即ち海軍当局の方針を明確にならしむる点之なり

■海軍乙事件の責任


-Z作戦計画書にゲリラは関心がなかったのか-


福留中将がセブと東京で弁解しているように、
現地民に渡ったZ作戦計画書にゲリラは関心がなかったのだろうか。

福留ら海軍中枢部は楽観視をしていたが、
Z作戦計画書はゲリラ隊長クッシング中佐から米国側に渡されていた。
連合国情報局「ALLED INTELLIGENCE BUREAU」の
アリソン・インド米陸軍大佐の証言記録のよれば、
クッシング中佐は福留中将ら高官が捕らえ機密文章入手した旨を、
すぐさま米国側に暗号電文を送信している。
この電文はミンダナオ、ネグロス両島のゲリラ部隊から
オーストラリアの連合国軍総司令部に中継され、
潜水艦をネグロス島に派遣して潜水艦でオーストラリアに移送しようと企てたが、
大西中佐らが包囲したため、
包囲を解くことを条件に福留らを引き渡したのだった。
そして、Z作戦計画書はゲリラの手によってセブ南部へ送られ、
夜間ひそかに浮上したアメリカ潜水艦に渡され、
オーストラリアのブリースベーンにある陸軍情報部に送られた。
ここで素朴な疑問が生じてくると思うのだが、
海軍中枢部はゲリラと米軍が裏でつながっている事実を
知らなかったのだろうか。
現地日本軍は米潜水艦の補給のせいで
ゲリラが討伐作戦や破壊工作を行っていることを知ってた。
知っていたというよりも甚大な被害を蒙り日々悩まされていた。
現地第三南遣艦隊司令部もZ作戦計画書が敵の手に落ちたことは確実と判断し、
飛行機で以下のようなビラを配っている

日本海軍機から拾得、もしくはその搭乗員より奪取せる文書、物入、衣服等
はすべて5月30日正午までに無条件に返還せよ。
もし諸君がわれわれの要求を履行しない場合は、日本帝国海軍は
諸君に対し断固たる徹底的手段に訴へるものであることを警告する


無論、ゲリラからの反応はないが、
海軍機は約2週間にわたりセブ島ゲリラ領域に猛爆撃を行った。
つまり、現地軍に関してはZ作戦計画書の奪還の動きはあった。
しかし海軍中枢部は「乙事件」に関して徹底的に秘密主義を通し、
現地軍と殆ど情報共有を行わず、内密に処理することばかり躍起になっていた。
従て、乙事件関係者に対する処遇の件 理由(1)(2)に関しては
「こじつけ」であること言わざるを得ない。

-Z作戦計画書はあ号作戦と捷1号作戦の原案-

日本海軍は米国に作戦が流出した可能性があるにも関わらず
Z作戦計画書の大要を練り直す事はしなかった。
そして、マリアナ沖海戦のあ号作戦、レイテ海戦の捷1号作戦の原案とした。
マリアナ海戦は、太平洋戦争中最大規模の空母決戦と称されるが、
日本海軍のお家芸アウトレンジ戦法は通用しなかった。
アウトレンジ戦法とは空母から飛び立った艦載機の航続距離を生かし
敵艦をいち早く察知し奇襲をかけるといった作戦であったが、
タウイタウイに配備された米潜水艦郡に駆逐艦が撃墜され、
航空機搭乗員は洋上飛行訓練の殆どが行えず、
新兵器VT真空管の対空砲火によって尽く撃墜。
日本海軍の新鋭空母郡は事前に情報をキャッチした
米潜水艦郡に追いかけまわされ魚雷攻撃で沈没している。
これもZ作戦計画書で作戦計画を想定した米海軍が
潜水艦を予め配備していた成果であった。
この敗北により機動部隊は三隻の空母と艦載機の大部を失い、
機動部隊としての戦力を喪失。
制海権奪回は絶望となりサイパン島は玉砕に至るのであった。
そして、いよいよ日本海軍最大の決戦。レイテ海戦に突入するのだが、
連合国軍情報局員のレイテ海戦関する証言記録によれば
連合国海軍は、広範囲にわたる日本軍の戦略的構想の大要を知り尽くして、
戦場にのぞんだばかりか、敵がどのような船にのってくるか、
其の燃料の量、火力、脆弱性、また指揮官の名までしっていたという。
台湾沖航空戦で大敗を喫した日本軍は
武蔵を含む戦艦3隻、瑞鶴を含む空母4隻、
巡洋艦6隻、駆逐艦9隻、航空機180機を喪失し未曾有の大損害を蒙る。
海軍は敵に致命的攻撃を与えることは不可能と判断。
いわゆる神風特別攻撃を実行するのであった。

-海軍のダブルスタンダード-


乙事件関係者に対する処遇の件-項目3処置
再度抜粋させていただくと


前諸号に依り関係者を問ふべき筋なきものと認むる所
従来敵国の俘虜となりたる者に対しては 
其の理由の如何を問わず極端なる処置を必要とするが如き
理外の信念的観念を以て対処したれる事実あり
故に今次の処置は 右の根本的観念を破壊せざること肝要にして
(従来の観念を変更せんとせば重大問題を惹起すべく且(かつ)変更すべきにあらずと信ず)
之が解決の途は一つなり即ち海軍当局の方針を明確にならしむる点之なり


従来は捕虜となった者への処置は戦陣訓の「自害」が妥当であり
観念を否定するものではないが、
今回のケースではそれに値しないということである。
しかし、何が従来の捕虜と異なるのか、明確に示す根拠はない。
ゲリラ民は敵かどうか判断できないというのは先に述べたように
ゲリラと米軍が密接な関係にあるのは周知の事実であり
無理やりなこじつけである。
そのこじつけを基に、今回は特例であって、
戦陣訓の概念を否定するつもりはないという海軍の主張は
軍紀適用が下級者に厳しく上級者には甘いとう
見苦しいダブルスタンダードであった


-信じられないその後-

福留中将と作戦参謀山本祐二中佐らは乙事件の責任を一切不問にされたばかりか、
その後の処遇は常識では考えられないものであった。
福留中将は事件から2ヶ月後の6月付で第二航空艦隊司令長官に昇進。
作戦参謀山本祐二中佐も、5月1日付で海軍大佐に昇進。
第二駆逐司令、連合艦隊司令部付、
8月には第二艦隊参謀に昇進しているのである。
某海軍省高級副官の回想メモによれば、海軍中枢部は、
福留中将一行が捕虜であったという疑念を一掃するため栄転させたという。

撃墜王坂井三郎氏の著書によれば。
昭和16年フィリピン島クラーク基地爆撃で
被弾し墜落しゲリラ兵に捕まり生還した、
坂井氏の同僚である原田空曹ら乗員らは階級章を剥奪されている。
そして、同伴した隊長の飛行機が監視する中で自爆させられて戦死した。
最後の打電は「10:10、爆撃完了。我今より自爆せんとす。
付近天候晴。生前のご厚意を深謝す。天皇陛下万歳」であった。
この冷酷非情な処置を強硬に主張したのが福留中将であったという。
福留中将はレイテ沖海戦で第二航空艦隊の指揮を執った。
第一航空艦隊率いる大西瀧治郎中将の特攻論に推され特攻を命じている。

■日本兵捕虜が私たちに伝えるもの


古賀と福留らが脱出したパラオは
マリアナ沖海戦によって制海権も制空権も奪われ、
取り残された守備隊は関東軍最強とよばれた第14師団を加え、
ぺリリュー島の戦いで臆することなく勇敢に戦い。玉砕した。
島の石碑には以下の言葉が記されている。

諸国から訪れる旅人たちよ。この島を守る為に日本軍人が
いかに勇敢な愛国心を持って戦い玉砕したかをつたえられよ。
米大平洋艦隊司令長官 C.ニミッツ提督


国のために殉じた者を「英霊」と呼ぶことがある。
「軍神」と謳われることもある。
私は勇敢に戦った兵士たちの美勇伝を沢山知っている。
部下と最後まで共に戦った優秀な将官も知っている。
しかし、私は斯様な言葉を軽々しく使いたくはない。

捕虜となった部下には自害を強要し、自らは一切を負わず。
Z作戦漏洩と其れによる甚大なる損害の責任は
年若き純粋なる部下の特攻によって清算され、
責任を負うべき立場の人間が責任から逃れ、
責任なき立場の人間が責任を背負うという許すまじき愚行が
あの戦争で平然とまかり通っていた事を私たちは忘れてはならない。


逆らうすべも無く身を投じた立場弱き彼らも、
心ならずとも身を投ずることができず捕虜となった彼らも
あの戦争で責任を負わされた犠牲者だっだ。

国に見捨てられ、自らを恥じ、悔し涙を流した日本兵捕虜らが、
やがで希望を見出し、一人の人間として生きることを決意し
米軍に進んで協力するようになった事は何等不思議な話ではなく。
誰も彼らを責めることはできない。

戦陣訓を示達した、A級戦犯東条英機は、
占領軍に捕まる前に拳銃自殺を図った。
「生きて虜囚の辱を受けず」を実践しようとしたのであろう。
しかし、皮肉なことに東条は自殺に失敗している。
東条は心底味わったに違いない。
手榴弾の不発で自殺に失敗し、
米軍に捕らえられた多くの日本兵捕虜たちの苦しみと悲しみを。
人間はなかなか死ねない、死のうと思っても簡単に死ねない。
戦地から遠く離れた陸海軍のエリートたちは、この現実を理解していなかった。
戦場にいる兵士の心情や人間としての理性を理解しようとしていなかった。
こうした日本の指導者たちの怠慢によって
どれだけの悲劇が繰り返されてきたことだろうか
私たちは決して目を逸らすべきではない。

”責任ある立場の人間がその責任を負わず”
戦後60年たっても日本の愚かしい体質は全く変わっていない。
無計画な公共事業によって巨額の負債を抱えることになろうとも、
エリート官僚たちは、誰が責任を取ること事も無く、
何事もなかったかのように昇進し、特殊法人に天下っている。
そして、最終的にその責任のすべては
国民の税金によって清算されている。
これは海軍乙事件の福留らの処遇と
その後の軍部の方針と全く同じではないか。

こうした悪しき慣習がどこにおいても見られるのが、今日の日本社会なのである。

参考文献:海軍乙事件 吉村昭
日本人捕虜 秦郁彦

日本兵捕虜終了 連載次回へ続く 
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| 戦争責任の探求 | 21:28 | comments(1) | trackbacks(0) | TOP↑

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戦争責任の探求 日本兵捕虜 二

ガダルカナル

■米軍をもっとも驚かせた日本兵の行動

米軍をもっとも驚かせた日本兵捕虜の行動とはなにか。

それは戦時情報局(OWI)が1953件という膨大な尋問調書を使って、
1945年12月に作成した「日本人の捕虜の態度」という
総括的レポートに見る事ができる。

レポートには、日本兵捕虜252人中70%が、
米国、オーストリア、満州の永住を希望した事など、
驚くべき実態が示されているが。
もっとも米軍を驚かせたのは、以下の事例である。

<事例>
捕虜は日本の陣地の上に(航空機で)飛んで、本陣や砲台の位置を教えると述べた

<事例>
捕虜は連合国の兵士となりたいと申し出るばかりか、可能なら、
連合国軍の上陸の前に第五列(敵内部にいるスパイ)として、
日本でプロパガンダさらにはスパイ活動の申し込みだった。



このような事例は、捕虜の80%以上であったとされ
米軍にとって驚愕であり、信じられない行為であり、
ただあきれてしまったようである


■捕虜の供述で大損害

1944年2月、アメリカ陸軍第37師団は、
ブーゲンビルで熊本の陸軍第6師団と対峙してた。
アメリカ軍はソロモン諸島の南部でガダルカナルの日本軍を
完膚なきまで撃退した1年後でもあったため、ブーゲンビルでも
日本軍に対し優勢を保っていた。

日系2世のロイ・ウエハラは、同年3月8日。
日本兵捕虜の尋問に当っていた。
彼が担当したのは上等兵だった。
尋問早々、その上等兵は彼にこの島からいつ離れられるかと質問した。
ウエハラは日本兵が偽名を使っている事や、
日本軍に奪還されるのを恐れている事を良く知っていた
つまり、上等兵は日本軍の反攻が成功してアメリカ軍が敗北し、
自分の身柄が日本軍に捉えられ、日本軍によって処刑されることを
なによりも恐れていたのである。
日本軍は敵の捕虜となった場合は、自殺するように命令してたのだ。

そこでウエハラは、その上等兵に一週間ほどの尋問が終われば、
日本軍が攻めてくる恐れのまったくない後方へ船で送られることになると伝えた。

ウエハラがびっくりしたのは、そう聞いて、上等兵が出し抜けに、
日本軍が3月23日。つまりは春分の日の朝に期して
大攻勢をかける準備をしているとしゃべったことである。

ウエハラはその極秘情報がアメリカ軍司令部に届いてないことを知っていたが、
とぼけて、その攻撃情報は他の多くの捕虜がすでに供述しているので、
新しいものではないと上等兵に答え、30分ほど平静を装い。
すぐに上官に伝えた。
上官は当初信じなかったが、他の捕虜にも尋問し、
計画が事実であることを確認。トップに連絡した。

アメリカ軍はすぐさま攻撃準備し、陸海軍が連携し、
日本軍へ大規模な先制攻撃を行った。
不意の攻撃によって、日本軍の陣営はズタズタに引き裂かれ、
5千人の死者と3千人の負傷者という大損害をだした。

一方アメリカ軍は263名の死者に過ぎなかった。


この功績を称えられ、ウエハラは1944年にブロンズスター勲章を受章した。

■敵も呆れる指揮官の無責任

捕虜の供述によって、日本軍が大損害をこうむった例は数え切れないほどある。
祖国の為に勇敢に戦った兵士が、なぜ連合国兵になりたいだとか、
スパイになりたいと志願したのか。

日本軍から捕虜がまとまって出た最初は、
ガダルカナルの戦いと言われている。
とはいっても、島全体でも200人から300人程度で、
実に死者の1%に過ぎない。
ガダルカナルで捕虜として捉えられた
尉官クラスの将校もさえも少なかった推測される

ガダルカナルにおいて米軍が呆れたのは、
上級将校のいち早い指揮放棄である。

その点に関して
アメリカ軍の「日本への心理戦争の基本計画会議録」(NARA)で
ムンソン大佐がこのように述べている。

日本の侵略が止まった時、捕虜がごく少数しか捕らえられなかったのには、
ともかく驚いた。アウステン山の掃討が完了した後、
23人しか捕獲できなかったのだ。
捕虜たちは嘆いていた。捕虜にならざるをえなかったと自らを慰めていた。
健康が回復してからフランクに意見を言い出した。
将校たちの我先の脱出を目撃したこと、第17軍の百武将軍が島を去ったことを、
彼らは知っていた。また第2師団の丸山将軍もすでに離れたことも知っていた。
第124連隊の岡大佐は我が第25師団の包囲をかいくぐって逃げ延びた。
彼らの脱走が兵士の士気を喪失させ、
精神の訓練で得ていた義務への奉仕の気持ちを変えさせて、
彼らを捕虜にした原因だと私は思う



もう一つ例を挙げておく、
今度は、悪名高い作戦で知られるインパール作戦における
下級将校の手記である

我々、第一線将兵は、幾度と無く、繰り返し繰り返し高級指揮官に
重砲と飛行機は一体どうしているか、早く送ってくれぬば敗北は分かりきっている、
是非とも、と願っていたのでありますが、その要求は少しも入れられず、
全くそれを無視して、反対に知らぬ顔で次々と山のように送られて来たのは
どう考えても実行が不可能なやくざな命令ばかりだったのであります。
しかも、それを実行すれば死ぬのは分かりきっているし、
何の役にも立たぬ可能性のない命令なのでありますが、
どうにかして服従しようとして苦労に苦労を重ねて、
その挙句忠実な兵は気の毒にも犬死にしていったのであります。

このように参謀や高級指揮官は、はるか後方に隠れていて、
何等前線の苦闘を知らず、ただただ、まだ努力が足りぬ、
もっともっと勇敢に奮戦しろと厳しく要求し、連日の死闘に
くたくたに疲れた兵をさらに苦しめているばかりなのであります。(中略)

私がこのような日本軍に対する意見を述べますと、
中には以前からずっとそのような考えであったかどうか?
とお尋ねになる方もあるでありましょう。
もちろん私が前線に赴任してくる前、平和なタイ国にいた頃までは、
そのような考えはさほど深くはありませんでしたが、
前線に来てみて、敗戦にヤケクソになった高級指揮官の冷酷な命令や、
第一線将校を動物以下に取り扱い、その挙句尊い命を紙屑を捨てるように
投げ出す無残なやり方を見た時、何もかも踏みつけにした
彼等の行為に対する憎悪の念が雲の如くわきおこり、
私はその中で、ひどく苦しんでいたのでありました

が、しかし、遂にそこを脱出した今日では、その雲もすっかり晴れ渡りました。
日本が英国と手を握らなくとも、
私は英国と個人的に手をい握って新しい道を発見したのであります。
英国と手を取り合って行くからには、なにか英国のお手伝いでもできることがあったら幸いと、
その日の来るのを楽しみに待っている次第なのであります



指揮官に対する憎悪なるものがひしひしと伝わって来る手記である。
部下に無謀な命令を強い、戦陣訓のいう潔い死を要求しながら、
自らは指揮を放り出し、部下を見捨てて保身に走る。
いかに愛国教育を徹底された帝国軍人であれ、不信に思うのが至極当然であろう。
米軍をもっとも驚かせた日本兵の行動の背景には、
こうした指揮官たちの無責任な行動があった。

■戦後の日本人も同じ

敗戦までの本土の日本人の多くは、
日本軍捕虜は存在せず、捕虜になれば敵に殺されると思っていた。
占領軍が上陸を開始した際も、男子は殺され、
女子はレイプされるというプロパガンダを信じていた。
これは敵に投降する前の日本兵捕虜の心境と同じである。

ところが、米軍は予想に反し、飢餓寸前の日本人に多量の食料を供給し、
医薬品や衣料品を与えた。
これも日本兵捕虜が味わった待遇と同じである。

日本兵捕虜は、負傷しているものは手厚い治療が施され、
一般米兵とほとんど変わらない食事を与えられ、
しかも、給料まで与えられ、収容所内で買い物すらできた。

日本人は、殺すどころか、救援の手を差し伸べてくれた占領軍に感謝感激し、
占領という国辱すら忘れ、米国に全面協力するようになった。
占領軍に積極的に情報提供して戦争責任の追及に協力したり、
隠蔽武器や物資のありかを教え、
大本営の元高級参謀らすらマッカーサーの諜報機関に協力したのだった。


占領軍は戦時中、日本兵捕虜に尋問を行った日系米国人兵士の人員を増強し、
文章の翻訳や戦犯容疑者の尋問に当たらせ、
日本人が捕虜になれば、新しい権力者の言うがままになり、
軍事や国家の重要機密情報をなんなりと流すという教訓を生かし、

戦後も日本人からあらゆる情報を手に入れたのだった。

実は現在もその方針は変わっていない。
日本企業を買収し、経営陣をスカウトし、ありとあらゆる情報を手に入れ、
戦前の戦略情報局の後進であるCIAは日本の国防と企業の情報収集を行い、
米国企業を常に支援してきたのである。

参考文献:日本兵捕虜は何をしゃべったか
     山本武利著 文春新書

次回へ続く 日本人捕虜と情報管理の問題を予定

| 戦争責任の探求 | 21:49 | comments(0) | trackbacks(0) | TOP↑

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戦争責任の探求 日本兵捕虜

東條

戦争責任の議論おいて、
「捕虜」の問題は必ずを言っていいほど持ち上がる。
捕虜の虐待・殺害など日本兵による捕虜の処遇の問題が中心であるが、
日本兵捕虜に関してはあまり議題にならない。

しかし、日本兵捕虜の問題について戦争責任論では外すことのできない
重要なテーマであると私は思っているので
第一回から述べる事にする。

■戦陣訓

戦陣訓 第八「名を惜しむ」

恥を知る者は強し。常に郷党家門の面目を思ひ、
愈々奮励して其の期待に答ふべし。
生きて虜囚の辱を受けず、死して罪禍の汚名を残すこと勿れ。


戦陣訓は、1941年(昭和16年)1月8日、
陸軍大臣・東条英機が示達した、
陸軍軍人としてとるべき行動規範を示した文書である。

「生きて虜囚の辱を受けず」とは、
捕虜になることは恥であり、潔く死を選べという意味であるが、
元々陸軍に対するものだったので、
必ずしも海軍に浸透していたものではなかった。

しかしながら、全体的に見れば当時の軍人や
国民に大きな影響力をもっていたといえる。

家族が村八分になったり、
妹や弟の結婚に支障をきたすことを極度に恐れ、
多くの日本兵が命を投げ出した事も事実であった。

それだけ大きな影響力があり、
帝国軍人として一番苦痛であろうとされる「恥」を
心ならずとも受け入れなければならなかった日本人がいた。
それが日本兵捕虜である。

捕らえられた理由は、
戦場において絶望的状況に追い詰められ、
自暴自棄になって投降した者、或いは、戦闘で瀕死の重傷を負って、
自決する力もなくそのまま捕らえられた者など様々である。

兎に角、捕らえられたどの兵士も、「捕虜」という自分の立場を、
とてつもなく「恥じていた」


■驚くべき日本兵の行動

当初の内、捕虜となった事を恥じていた日本兵は、
殆ど深刻そうな顔をして心を閉ざし、
尋問官に対しても黙り込んでいた。
煙草を与えようがお茶を出そうが、殆ど打ち解けなかった。

ところが、何度も面会しているうちに、
日本兵は驚くべき行動を取るようになった。

尋問する側が驚くほど馴れ馴れしく話すようになり、
兵力の配置、装備の事など、
「こんなこと言ってもいいのか」と思うほど、
ありとあらゆる有益な情報を喋りだしたのである。


■日本兵捕虜は重要な情報源

卑屈なまでに戦陣訓を己に課した日本兵が、
意図も簡単に自白してしまうのは米軍にとってまさに驚きで、
当時残忍な黄色人種として軽蔑していた日本兵が、
重要な情報源になるとは思いもしなかった。

米軍は積極的に日系人を使って捕虜を尋問し、
日本兵からありとあらゆる重要な軍事情報を引き出し、
結果的に日本軍による神風攻撃など重要な軍事作戦を事前に予測し、
戦況を有利に進めていった。

■驚くべき行動の要因

日本兵は祖国の為に、天皇の為に、家族の為に、
米英を倒すべく敵愾心を燃やして実に勇敢に戦った。

では、なぜそのような日本兵捕虜たちが、
敵に有利となるような情報をぺらぺらと喋ったのだろうか。
今の常識では考えられない事だが、その考えられない事が実際におきていた。

―捕虜に関する無知―

ジュネーブ条約は捕虜の権利と義務について定めたものである。
日本が条約に批准していなかったこともあり、
捕虜となった場合に、どうしたらいいのか知っている人間は皆無だった。

どう対処したら良いのかもわからない日本兵捕虜は
敵に喋って良いことと
喋ってはいけないことの区別も分からず、
米軍の誘導尋問に簡単に乗せられてしまっていた。


捕虜となった者は名前、階級、軍籍番号を告げなければならず、
それ以外は黙秘する権利が与えられていた。
ジュネーブ条約は捕虜になった者と、
捕虜を確保した国との法的な関係を規定している。
捕虜に与えられる一定の権利も補償されている。

黙秘する権利が与えられていたのだから、
いかなる情報もしゃべらないと決めた捕虜にとって、
沈黙は間違いなく最大の武器だった。
しかし、それを知らない日本兵捕虜はその武器を殆ど行使しなかった。


―所属感情の喪失―

丸山真男は日本兵捕虜の状況と
ナショナリズムの関係を結びつけて以下ように述べている。

一口で言えば、われわれのナショナリズム意識は
「うちわ同士」と「よそもの」の所属感情―
集団的地域的な所属感情が中核になっていて、
民族自決という主体的な意識の面が非常に弱いということです。

日本人の愛国心はグループでもっている所属と団結の意識であって
土着性から、あるいはグループから切り離されても、
たった一人で未知の異国でがんばるような愛国心、
あるいは「戦場にかける橋」という映画で典型的に出ているような、
ジョン・ブルの将校捕虜のふてぶてしい愛国心―
頽勢にたじろがず、むしろいよいよ闘志をわかすような
腰の強い愛国心は、あれほど忠君愛国をたたきこまれた
大日本帝国でも存在に乏しかったんですね。
ファナチズムといってもグループの勢いで
ワァーッと気勢を上げるということだった。



日本は他国のように国際赤十字を通した
捕虜救出活動は行っておらず。
捕虜となった日本兵を見放し、何ら対策をとらなかった。
従って、捕虜たちの中では名誉をもって祖国に帰還することを
諦めた者も少なくなく、
第三国の永住を希望する者もいた。

国に見放され「恥」となった日本兵捕虜の多くが、
所属と団結の意識を喪失していたと考えられる。
だからこそ、米軍が驚いたような
馴れ馴れしく話す日本兵捕虜の姿があったのだろう。


■怠慢の責任

日本兵捕虜たちが、軍事情報を喋ってしまったことは、
日本にとって大きな損害だった。

日本の敗因の一つだと言ってもいい。

この損害の責任はどこにあるのか。
―それは―

捕虜になった場合、
軍人としてどのような行動を取るべきかの教育を全く怠り、

―生きて虜囚の辱を受けず―
捕虜になるくらいなら、潔く死を選ぶという、
あまりに安直で短絡的な解決方法に甘んじ、

捕虜となった日本兵の救出措置を行わず放置し続けた、
日本の指導者の怠慢に有った。


参考文献:戦陣訓の呪縛 捕虜たちの太平洋戦争
     丸山真男 座談「六」1966

※次回へ続く

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